
【入道】
-
富貴(ふうき)の地位、
つまり支配的・指導的地位に
いつまでもしがみついているということは
芳(かんば)しからぬことである。
いい年になったら
早く後継者にその地位・財産を譲って、
真実の生活に入るべきものである。
これを入道(にゅうどう)という。
-
『安岡正篤』
-----
わたしは富貴の地位も、支配的・指導的地位も知らぬ(経験がない)。
一部において憧れることもたまにはあるが、わたしは入道した(と思っている)。
kadodesmo
【健康的な住宅】
-
人間の生活に、
住居がその緊要の条件の一つであることは、
議論の必要のないことで、
従ってこれに関する理解もまた重要である。
でき得る限り風通しの良いこと。
すなわち言い換えれば、空気流通のよいこと。
日当たりのよいこと。
すなわち、言い換えれば
明るい室をもつ家であること。
この二つの条件が具備されている家なら、
たとえバラックでも、
完全な健康的住宅であるといえるのである。
-
『中村天風』
-----
昔、「家族のためにいい家を建てよう」として目を血走らせたことがある。
難しいこともたくさん学んだが、「神経質になるときりがなかったな!」と、今は思う。
「空氣流通がよくて、明るい部屋をもつ家」
これがあればバラックでも完全な健康的住宅といえる。
あとこれと呼応するのかもしれないが、
「空氣流通がよくて、明るい人(家族)が住む家」
これが本来の目標であり理想(天地自然の理法を想うこと)だ。
肩の力がスーとひいた氣がする。建てる予定などはないが・・・。
kadodesmo
【悩んでも悩まない】
-
われわれ人間は、
たえずといっていいほど悩みにつきまとわれる。
しかし私は、悩みがあるということは、
人間にとって大事なことではないかと考えている。
なぜかというと、
常に何か気にかかることがあれば、
それがあるために大きなあやまちがなくなる。
心がいつも注意深く活動しているからである。
だから、悩みを持つことは、
むしろプラスにつながる場合が多い。
したがって悩みに負けてしまわず、
自分なりの新しい見方、解釈を見出して、
その悩みを乗り越えていくことが大切である。
悩んでも悩まない、
そういうように感じることができれば、
人生は決して心配することはない。
-
『松下幸之助』
-----
『理想(天地自然の理法を忘れず想うこと)』
をもって活きているなら、この、「悩んでも悩まない」を実行できるような氣がする。
kadodesmo
【自然訓】
-
一、人は一つの自然である。
われわれは自然の如く真実でなければならぬ。
人は自然なのです。
しかし、現代人はこの至極当たり前の厳然たる真理を忘れてしまって、
人間というのは何か特別の存在のように思い込んでいる。
そこに現代文明の危うさがある。
文明の進歩・発展は同時に文明の衰退・破滅でもありますが、
そのことをわたし達は認識していない。
だから、未だに経済発展至上主義の風潮が蔓延っているのです。
経済なんていうのは、枝葉末節です。根本ではない。
根本は「いかに自然であるか」ということです。
それなのに現代文明はあまりにも不自然な生き方を強いられます。
車に乗るのも不自然。エアコンで温度を調整するのも不自然。
コンビニで買い物をするのも不自然。二十四時間営業も不自然。
年中無休も不自然…というように、何から何まで不自然です。
便利や快適と引き換えに自然を失ってしまったと言ってもいいでしょう。
しかし、そのようなことを考えたこともない、考えてみようともしない。
そんなことを言うと、ほとんどの人がなにを馬鹿げたことを言ってんだよ、
と思ってしまうでしょう。
それほど、不自然な存在、不自然な生き方をしているのです。
しかし、自然に戻ること。
これが現代人の最大のテーマだとわたしは確信しています。 『白倉信司』
一、自然はすこやか(健)である。
われわれも常に怠ることなく努めよう。
朝の通勤時間帯。車で出掛ける。通勤ラッシュでノロノロ運転。
車を運転している人々の様子を観察したところ、
ほとんどの人が苛々(いらいら)しながら運転している。
朝から苛々(いらいら)しているのは、善くありません。
体にも心にも毒です。
ほとんどの人が自分では気が付かないうちに朝から毒を発している。
その毒が会社に到着すると会社中に蔓延するわけですから、
実に不健康。すこやか(健)ではありません。
会社というのは大体同じような時間に始まるのですから、
通勤ラッシュが起こるのは仕方がないとしても、
それに巻き込まれて苛々(いらいら)してしまう
その心をどう制御するか
ということを考えないと、
出勤するだけで人間らしさを失ってしまいます。 『白倉信司』
一、自然は造化である。
われわれもかたくな(固陋:ころう)にならず、
一生自己を進化してゆこう。
造化とは大宇宙の絶えざる発展の現われです。
人間も大宇宙の一部ですから、自ら進化・発展し続けなければなりません。
大学にあります、湯の盤の銘に曰わく、
「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」
であります。今日のわたしは、昨日のわたしよりもどこからしら
進化・発展していなければいけない。
昨日・今日の比較ではわからなくても、一年前と比べた時に、
どこも進化・発展していない、なにも変化していない
ということでは、
まともに生きていない、ということです。 『白倉信司』
一、自然は無限である。
われわれも大海・虚空の如く心胸を開こう。
自然は無限である。
すなわち大宇宙は無限です。
わたし達も自然の一部、
大宇宙の一部でありますから本質的には無限の存在です。
しかし、大宇宙の造化の現われとして、
この世に人間として生まれ出た時から、無限の限定の存在となりました。
すなわち有限。生老病死。
この世に形あるものとして生まれ出たものは、
やがて老いて病んで死んでいく宿命にあるのです。
しかし、本質は無限です。
一、自然は円通である。
われわれも万物一体の妙理を学んで
安心立命を深めよう
円通というのは、すべてに通じること。
よくお坊さんが円相といって、一筆で円を書きますが、
その円はこの大宇宙を表しているといいます。
ですから円通というのは、大宇宙に通じること。
万物一体となることであります。
大宇宙に通じてこそ、安心立命が得られるのです。
安心は「あんじん」と読みます。
わたし達が日常会話で用いる安心とは、意味が違います。
もっともっと奥深い言葉です。心が本当に安んずること。
安楽になること。
何が起こってもそれを受け入れられる大きな安定した心が安心です。
立命というのは、天命に導かれて運を切り開くこと。
天から授かった己の人生を生き切ることです。 『白倉信司』
-
『安岡正篤』
-----
「天地自然の理法を想い続けて(忘れずに)活きる」
そのことが「理想を持ち続ける」ということだと強く感じ、思う。
kadodesmo
【心身統一法は修行にあらず】
-
心身統一法の目的は、
「人間の生命に賦与され(割当て与えられ)た
本然の力の完全発揮」
であるが、
この方法を修行として行ったのでは第二義的となる。
では、第一義とは何かというと、
それは講習や書籍、
あるいは行修を通じて教える各種の方法を、
日常行事として行うことである。
すなわち、
特別な機会に、特別な氣持ちで行う
などと錯覚してはいけない。
だから、
一人一人の日常生活のそれ自体が、
その人にとっての
心身統一法そのものでなければならない。
-
『中村天風』
-----
天地自然から刹那、賦与された
わたしの生命の本然の力を完全発揮するには、
まさにわたしが本来の意味において自然と同然であること識り、
そのことを実感しながら日常生活を営むことが大切だと思う。
感謝の氣持ちがあふれてくる。
kadodesmo
【人間観を持つ】
-
人間の幸せを高めていくためには、
まず人間が人間を知ることが大切だと思う。
言いかえれば、
人間とはどういうものであり、
どういう歩み方をすべきであるか
という正しい人間観を持つということである。
そうした人間に対する正しい認識を欠いたならば、
いかに努力を重ねても、
それは往々にしてみのり少ないものになってしまい、
ときにはかえって人間自身を
苦しめることにもなりかねない。
そういう意味において、
指導者がまず正しい人間観、
社会観といったものを生み出し、
それに基づく指導理念を打ち立てていくならば、
それはきわめて力強いものになってくると思うのである。
-
『松下幸之助』
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「人間が人間を知る」ことは壮大なテーマだが、まず、
「自分が自分を知る」ことから始めたい。
2008.5.16
kadodesmo
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「自分」=「今あるわたし」
=「今ある自己の分際」
=「今ある環境(肉体含む)+心」(不可分)
=「今あるとわかる生命そのもの」
人間観の前に、一年かけて自分観を追究してみた。
すると自分観がそのまま人間観、ひいては自然観につながっていることに氣付いた。
kadodesmo
【慈悲の菩薩】
-
私は子供の時からお地蔵さんが好きであった。
年をとった今日でも
旅の途次(とじ)、
ふと地蔵像を見かけると、
足を停(と)めて拝(おが)む。
地蔵さんは釈迦仏(しゃかぶつ)没して、
彌勒(みろく)仏のまだ世に出でたまわぬ
所謂(いわゆる)無仏時代に現れて、
千体地蔵といわれるように、
様々の形を取って、
罪苦(ざいく)になやむ衆生(しゅじょう)を
済(すく)わんと努力する慈悲の菩薩(ぼさつ)である。
一王は発願(ほつがん)して
早く成仏(じょうぶつ)せんことを望んだが、
一王は発願して永く罪苦の衆生を救いたく、
その為には自分が成仏できなくともよいとした、
所謂(いわゆる)悲願に徹したのが
即(すなわ)ち地蔵菩薩である。
地蔵さんほど衆生に親しまれているものはない。
-
『安岡正篤』
-----
廣澤隆之(著)「図解雑学仏教」によりますと、
地蔵菩薩とは、
「釈迦如来が入滅した後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、
六道を輪廻する衆生を救う菩薩として信仰された」そうです。
六道とは、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄のことで、
わたし達凡夫は、常にこの六道を彷徨っているのです。
何か好い事があると天に舞うような気持ちになったり、
嫌な事があると地獄に堕ちたような気持ちになったりと、
人間というのは非常に不安定な精神状態で生きているのです。
その彷徨う精神を救ってくださるのがお地蔵さまですから、
道端でお地蔵さまに出会うと、
非常に救われた気持ちになるのです。
前掲書によりますと、
「日本には古くから地蔵菩薩の信仰が移入されたが、
特に平安末期に浄土教が広まり、地獄の観念が浸透するにつれ、
地蔵菩薩が地獄の苦しみを代わりに受けてくれるという信仰も盛んになった。
また、地蔵菩薩が地獄の閻魔王の本身であり、地獄に堕ちた物を救うと信じられた」
そうであります。
『白倉信司』
-----
※一王
地蔵(じぞう)
菩醍(ぼだい)の一つ。サンスクリット名クシティガルバ
Koitigarbha の訳。
六道および五濁悪世を選んで救済活動にあたり、
弥勒の出現まで活躍する。
〈わが名を唱える人を苦から救う〉という誓願をたて、
梵天,夜叉,狼,閻魔などさまざまの姿をとって衆生を導く。
《地蔵菩醍本願経》によると,かつて二王がいて、
●一王は自ら悟ってから衆生を救おうと考え、
●一王はまず衆生を悟らせてから自らも悟ろうと考えた。
前者は一切智成就如来、後者は地蔵菩醍である。
〈地蔵〉の意味は〈大地(クシティkoiti)の子宮(ガルバ garbha)〉であり、
大地はたとえ裸でもさまざまのものを生み出す力を秘めているように、
〈地蔵〉はいま菩醍であっても仏としての豊かな可能性を秘めていることを象徴している。
したがって沙門の姿で表される。中国の偽経《預修十王生七経》では、
罪人は死後に十人の王の役所を通過するとされ、日本の偽経《地蔵十王経》では、
そのうちの閻羅(閻魔)王が地蔵の化身とされる。
『定方 里』
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/jizou.html
※地蔵菩薩
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/jizoubosatsu.htm
※菩薩
菩薩(ぼさつ、bodhisattva(sanskrit))は、仏教において、
成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者。
後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、
庶民の信仰の対象となっていった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E8%96%A9
※菩醍 ぼだい【菩提】
《(梵)bodhiの音写。智・道・覚と訳す》仏語。
1.煩悩(ぼんのう)を断ち切って悟りの境地に達すること。また、悟りの智恵。
2.死後の冥福(めいふく)。
※彌勒(弥勒)菩薩
弥勒菩薩(みろくぼさつ)、
梵名(梵語名:ぼんごめい=マイトレーヤ (maitreya)は仏教の仏菩薩の一尊である。
梵名を意訳して慈氏菩薩ともいう。字(あざな)は阿逸多 Ajita といい、無勝等と訳す。
インドの波羅奈(パラナシー)国に生まれ釈迦仏の化導を受け、
未来に成仏するという記を与えられたという。
弥勒はゴータマ・シッダッタ(釈迦牟尼仏、現在仏)の次にブッダとなることが
約束された菩薩で、ゴータマ・シッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に
姿をあらわし多くの人々を救済するとされる。
現在は、兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、
弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9
※釈迦如来
釈迦如来(しゃかにょらい、しきゃじらい)または釈迦牟尼仏は、仏教の開祖
釈迦〔姓名:瞿曇悉達多(クドンシッタルタ)
梵語:Gautama siddhaartha(ガウタマ・シッダールタ)
パーリ語:Gotama Siddhattha(ゴータマ・シッダッタ)〕を仏(仏陀)として敬う呼び方。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%BB%8F
※梵語
梵語(ぼんご)=サンスクリット語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88
※成仏
成仏(じょうぶつ)は仏教用語で、さとりを開いて、
仏陀(ブッダ、如来)になること。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
※如来
如来 (にょらい)とは、仏教で釈迦を指す名称(十号)のひとつ。
あるいは、大乗仏教における諸仏の尊称。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%9D%A5
※仏の一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
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お地蔵様が慈悲の菩薩だということを改めて知った。
正法眼蔵を学ぶのとは違い、
仏教の「お話」を細かく勉強するつもりはないが、
お地蔵様に出会い、その顔を拝むと何故か癒される。
この感覚は大切にしたいと改めて感じた。
kadodesmo
【思いやりの実行】
-
思いやりの氣持ちがいかに貴いかは
誰でも知っているが、
実行できているかというと、
意外とそうではない。
それは、その人の人生観が
自己中心主義にかたよっているためである。
これを解決するには、第一に
この世の万物万象が、
互いに助け合って調和をはかりながら存在している
という事実を知ることである。
人生に起こるすべてのことを
スムースに解決する秘訣は、
「もし仮に、自分が相手の立場にいたらどうであろうか?」
と、そのつど考えることである。
-
『中村天風』
-----
『この世の万物万象が、
互いに助け合って調和をはかりながら存在している
という事実を知ることである。』
これが肝であり天地自然の理法(真理)であり、
このことを忘れないことが「理想(天地自然の理法を想う)を持ち続けること」だと思う。
「わたし」=「環境(肉体含む)+心」(不可分)=「(実在)生命」
『環境も含めて私』なんだから、
そういう意味で縁あって関係する相手も含めて私なのだ。大切にしたいと思う。
kadodesmo
【業界の信用を高める】
-
どんな商売もそうでしょうが、
自分の店が発展、繁栄していくには、
そのお店の属している業界全体が常に健全で、
世間の人びとから
信用されていることが非常に大事だと思います。
もしそうではなく、
業界の中に不健全な店が多ければ、
「あの業界はだめだ、信用できない」
ということになって、
その業界に属する個々の店も、
同じような評価を世間から受け、
商売は成り立っていきにくくなるでしょう。
ですから、
お互い商売を進めていく上で、
自分の店の繁栄をはかることは
もとより大事ですが、
それと同時に、
他の店ともうまく協調して、
業界全体の共通の信用を高めることに
配慮することが、きわめて大事だと思うのです。
-
『松下幸之助』
-----
食品偽装の問題がでたら・・・
例えば鰻、以来、我が家ではほとんど口にしないようになった。
(高価なので元々、ほとんど口にできないが・・・
)
健全に営業をしているお店・業界にとっては大打撃だと思う。
そういう公の立場にたって、自分の仕事も行っていかにゃならんな!と感じた。
kadodesmo
【道徳の本義】
-
道徳というものは、
非常に誤解されておりますが、
その本義は、単なる動物的生活ではなくて、
意識・精神・霊魂を持った
高級な人間の生命活動を言うのであって、
道徳によってはじめて
人間は存在し、生活し、発達することが出来る。
肉体で言うならば、
飲食や呼吸と同じことであります。
従って生命を抑圧したり、
一つの型にはめたりするのは決して道徳ではない。
-
『安岡正篤』
-----
人にとって道徳とは、飲食や呼吸と同じ。
自他共に、心や体や環境を一つの型にはめたりするものでは決してない。
なぜならば、自他共に無常であり、常に維新し続けているからだ。
これは人だけでなく、森羅万象すべてにいえることで、天地自然の理法だ。
そして、飲食や呼吸が止まれば、人は生きていけないように、
道徳というものも、命あるかぎり学び続けるものであると思う。
今日も学べることに感謝しよう。そう思って生きれば、(今日の)人生も活きてくる。
kadodesmo
【絶対積極と相対積極】
-
精神の積極状態というのは、
厳密にいうと
「絶対積極」と「相対積極」
の二つに分類される。
絶対積極とは、
「何事に対しても虚心平氣の状態」をいい、
相対積極とは
「何事に対しても、できうる限り
明朗、恬淡、溌剌、颯爽として対応すること」をいう。
※恬淡【てんたん】
欲が無く、物事に執着しないこと。また、そのさま。
「名利に―な人」「無欲―」
※溌剌【はつらつ】
1.生き生きとして元気のよいさま。
「―とした声」「生気―たる若者」
2.魚が飛び跳ねるさま。
※颯爽【さっそう】
人の姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与えるさま。
「―と歩く」「―たる風姿」
いずれにしても、
人生建設の先決要諦である健全精神の完成は、
その基本条件である精神状態を
絶対積極の状態に到達させることである。
-
『中村天風』
-----
絶対積極(せきぎょく)とは、虚心平氣、
天地自然と同然となれている状態。すなわち心の状態。
相対積極(せっきょく)とは、実生活での対応をいうらしい。
相対だから必ず比べる相手がある。比べる相手によって変わる。
だから相対に積極も消極もない。
日常を生きていれば、人は、この「相対」に影響される。
だからこそ、理想を持ち続けて活きたい。
理想とは、天地自然の理法を想うことである。
kadodesmo
【母の愛】
-
私は今でも、
大阪へ奉公に出る息子の私を駅まで送ってきてくれた
母の姿を、はっきりと心に浮かべることができる。
涙で語ってくれた注意の言葉、
汽車が出るまで
しっかり握って離さなかった手のあたたかみ……。
そのときの母の思いは、
大阪へ行ってからの私の幸せ、私の健康を、
言葉では言いあらわせないくらい
心に念じていてくれたんだ、としみじみ感じる。
このように、
あふれるようなというか、
ひたすらな母の愛というものは、
今も私の心に脈々と生き続けているのであって、
これまで仕事を進めてこられたのも、
私の将来というものを心から祈ってくれた
母の切なる願いの賜ものであろうと思っている。
-
『松下幸之助』
-----
母の慈愛ほど尊いものはないと思う。
言葉なんてものは人間がつくりだした、所詮、抽象概念しか伝わらない道具。
されど日常生活において大きな影響力を持つ道具だから、これまた困ったものだ。
だからこそ、母の慈愛は子にとって何物にもかえがたい事実実態。自愛ではない。
kadodesmo
【母】
-
明治初期に、儒者としてもクリスチャンとしても、
又教育家文学者として典型的な君子人、
中村敬宇(けいう)に「母」と題する名文がある。
「一母有り。
四才児を携(たずさ)えて一牧師に問うて曰く、
子を教うるは何才を以て始めと為(な)すかと。」
「牧師對(こた)えて曰く、
汝の笑顔の光、小児を照せしより、
子を教うるの機會(きかい)始まると、
嗚呼(ああ)、世、固(もと)より
此(こ)の母の機會(きかい)を失う如き者多し。
今世の人、口を開けば輒(すなは)ち文明と曰い、
而(しこう)してその本原(ほんげん)に昧(くら)し、
余(よ)嘗(かつ)て謂(い)う、
国政は家訓にもとづき、
家訓の善悪は則(すなわ)ち、その母にかかわる。
母の心情、意見、教法、礼儀は
其の子他日(たじつ)の心情、意見、教法、礼儀なり。
斯(ここ)に知る、一国の文明は、
その母の文明に本(もと)づくことを。」
-
『安岡正篤』
-
※機會=機会(きかい)
※【▽然して/×而して】しか‐し‐て
[接]そして。それから。多く漢文訓読文に用いられる。
※【×而して】しこう‐し‐て〔しかう‐〕
[接]《中世には「しこうじて」とも》前文で述べた事柄に並べて、
あるいは付け加えて、別の事柄を述べるときに用いる。
そうして。それに加えて。
「水は台所より外には無い。―台所は二階には附いていない」
〈二葉亭・浮雲〉
◆もと、漢文訓読系の文章の中で用いられた。
「しかくして」あるいは「しかして」の音変化か。
※本原=本源
※【本源】ほん‐げん
物事のおおもと。みなもと。根源。
※昧い・暗い(くら−い)
・明るくない
・はっきりしない。曖昧(あいまい)
・おろか。愚昧(ぐまい)
※【余・予】よ
(代) 一人称。われ。わたくし。やや尊大な、
または、改まった言い方として男子が用いる。
・―の説くところをよく理解せよ
※【×曾て/×嘗て】かつて [副]
1.過去のある一時期を表す語。
以前。昔。「―京都にいたころ」「―の名選手」
2.(あとに打消しの語を伴って用いる)今まで一度も。ついぞ。
「―ないにぎわいを見せる」「いまだ―聞いたことがない」
3.(あとに打消しの語を伴って用いる)まったく。全然。
「木高(こだか)くは―木植ゑじほととぎす
来鳴きとよめて恋増さらしむ」〈万・一九四六〉
◆近世以降「かって」ともいう。
※【他日】た‐じつ
1.将来における不定の日をさす語。いつか別の日。後日。
「―を期する」
2.以前の日。過ぎ去った日。
[類語]何時か
-----
以下、安岡正篤(著)「東洋倫理概論」より抜粋引用。
母なる女性の本質について。
《造化の対応的原理》
よくよく造化にはその裡(うら)に限りない分化発現
(漠然としたものを一つ一つ分析して明確なものに実現すること)
の力(陽)と、
これに応ずる統一潜蔵
(分化したものに再び新しい生命を与えて統一し、奥深く蔵すること)
の力(陰)とが働いている。
これによって物あれば心あり、名利を求める半面に
隠逸(俗世間から逃れて山水の生活をすること)を尚(とうと)び、
理知あって明らかに内外の世界を発見してゆけば、
必ず情愛あって天地同根万物一体たらしめる。
人もこの理によって男と女とがあり、
ここに生々の妙趣を発揮するのである。
《男女の対応的特性》
男は人間における分化発現の作用を本領とし、理知に富み、名利を欲し、
社会に生き、万物を明弁し、自己を顕栄にせねば止(や)まない。
しかし、それはやがて疲労である。索漠である。
競争…嫉妬…排擠(はいせい:おしのけること)である。
苦悶懊悩である。
無限の宇宙にただ自己の憐れむべき孤影を顧みさせるに止まる。
その時、彼を慰める最も親しい者は女性である。
女性は造化の統一潜蔵の力を本分とし、男性的原理によって
分化対立してゆく世界をそのままに統一調和して、
元の天を保ってゆく。
その力は換言すれば、大我に生きんとする本能的努力であり、そこに薫蒸
(くんじょう:薫り高く立ちのぼる)するものを、すなわち情愛と言う。
《女性と我欲》
女性の本領はかくの如く大我に生きんとする努力であり、
情愛にあるが故に、それは当然女性を無我にし、無欲にするものである。
我欲は何が故に醜悪であるか。
これすなわち造化の罣(けいげ:妨げとなるもの)であり、
理想の自殺に外ならぬからである。
愛にしてはじめて卑しくせせこましい小我の隔執(かくしつ)を撤して、
大いなる天の懐に自他を融合することができる。
考えようによっては人の人に対する豺狼
(さいろう:やまいぬとおおかみ)の如し、であるが、
しかも一度子の親となっては、
ものいわぬ四方のけだものすらだにも
あわれなるかなや親の子を思う(実朝)
思えば感涙なきを得ない。
いかなる薄情な人間でも、子を養うに吝(やぶさ)かな者はない。
随分けちな男も懸想した(恋い慕う、辞書から)女には何かと入れあげる。
情愛が深く大きくなるにつれて、
富も位も命もまたあえて惜しまなくなるのである。
かくして親は子のために、妻は夫のために、臣は君のために己を忘れる。
女は無我であり無欲であるほど純粋である。崇高である。
さればこそ世に母の徳ほど尊く懐しいものはあるまい。
母は子を生み、子を育て、子を教え、苦しみを厭わず、
与えて報を思わず、子と共に憂え、子と共に喜び、我あるを知らぬ。
夫に添うては夫をたて、夫の陰に隠れて己の力を尽くし、
夫の成功を以て己みずから満足している。
夫や子が世間に出て浮世の荒波と戦っている時、
これに不断のなぐさめと奮励とを与える者は母である。
夫や子が瞋恚の炎に燃え、人生の不如意を嘆ずる時、
静かな諦観(物事の本質を知り、明らかに悟ること)と
久遠の平和とに導く者も母である。
母は人間における造物主の権化ではないか。
誠に母の徳こそは「玄の又玄(玄は奥深いこと、その又奥深いこと)」
なるものであって、婦人は根本において
必ずよき妻たり母たる人でなければならぬ。
婦人にいわゆる娼婦型が著しく増加して、妻らしい婦人、
母らしい婦人の段々なくなってゆくことは、
確かに忌むべき婦道の堕落である。
《女性と敬と恥》
かく愛は大我に生きんとする努力であり、
したがって理想に純なる熱情であるから、
それはまたおのずから人をよく敬虔ならしめ、
恥を知らしめる。
およそ恥は低きもの卑しきものが高きもの尊きものの引接
(いんじょう:導き引きつける)に遇うて、
思わず自らの中に催す感情であり、敬はその高きもの尊きものに対して
発する感情であって、最も美妙な人間特有の作用である。
狭陋なる我欲の人間ほどこの両者を欠くわけであるが、
愛を本領とする婦人は最もよく恥じらい、
敬(つつし)む人でなければならぬ。無知な女、
厚顔な女、不真面目な女には百年の恋も一朝にして覚めよう。
『安岡正篤』
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※造化 ぞう‐か
1.天地万物を創造し育てること。
また、それをなす者。造物主。「―の神」
2.造物主によってつくられたもの。自然。「―の妙」
※統一潜蔵
せん‐ぞう〔‐ザウ〕【潜蔵】
[名]スルひそみ持つこと。また、ひそみ隠れること。
※名利 みょう‐り〔ミヤウ‐〕
名誉と利益。また、それを求めようとする気持ち。
めいり。「―を求める」
※隠逸 いん‐いつ
俗世間から逃れて、隠れ住むこと。また、その人。
※尚ぶ とうと・ぶ〔たふとぶ〕【尊ぶ/貴ぶ】
[動バ五(四)]
1.尊いものとしてあがめる。たっとぶ。「神仏を―・ぶ」
2.価値あるものとして重んじる。尊重する。たっとぶ。「人命を―・ぶ」〔動バ上二]に同じ。
【貴ぶ▼尚ぶ】
類語:人命を貴ぶ 名誉を貴ぶ
▼【尚ぶ】 武を尚ぶ 礼儀を尚ぶ
※理知 り‐ち【理知/理×智】
1.理性と知恵。また、本能や感情に支配されず、
物事を論理的に考え判断する能力。
2.(理智)仏語。真如の理と、それを悟る智慧。
※同根 どう‐こん
1.根が同じであること。また、同じ根から生じること。「―の語」
2.兄弟。
※生々 せい‐せい【生生】
[名]スル 物が生まれ育つこと。しょうじょう。
[ト・タル][形動タリ]いきいきして活気があるさま
※妙趣 みょう‐しゅ〔メウ‐〕
すぐれたおもむき。非常にすばらしい味わい。
妙味。「―に富む名園」
※顕栄 けん‐えい
[名・形動]位が高くて世に時めくこと。
立身出世すること。「富貴―」
※索漠 さく‐ばく【索漠/索×莫/索×寞】
〔ト・タル][形動タリ]
心を満たすものがなく、もの寂しく感じるさま。
荒涼として気のめいるさま。「冬枯れの―とした風景」
「―たる思いにとらわれる」
※苦悶 く‐もん
[名]スル肉体的または精神的に苦しみもだえること。
「―に満ちた顔」「日夜―する」
※懊悩 おう‐のう〔アウナウ〕
[名]スルなやみもだえること。煩悶(はんもん)。
「行き詰まって―する日々」
[ト・タル][形動タリ]悩みもだえるさま。
※憐れむ あわれ・む〔あはれむ〕【哀れむ/×憐れむ】
[動マ五(四)]
1.かわいそうに思う。不憫(ふびん)に思う。
「―・むようなまなざし」
2.賞美する。めでる。あわれぶ。
※孤影 こ‐えい
独りぼっちでもの寂しそうに見える姿。
「―悄然(しょうぜん)として去る」
※大我 だい‐が《「たいが」とも》
1.仏語。真如の永遠なる自在の働き。
狭い見解や執着から離れた自由自在の悟りの境地。小我。
2.インド哲学で、宇宙の本体としての唯一絶対の精神。小我。
※我欲 が‐よく【我欲/我×慾】
自分一人の利益・満足だけを求める気持ち。
「―が強い」「―を捨てる」
※醜悪 しゅう‐あく〔シウ‐〕
[名・形動]容姿がみにくいこと。
行いや心がけなどが卑劣で嫌らしいこと。
また、そのさま。「―な争い」
※賤しい いやし・い【卑しい/×賤しい】
[形]いや・し[シク]
1.身分・社会的地位が低い。「―・い身」
2.品位に欠けている。下品だ。
「―・い言葉遣い」「根性が―・い」
3.貧しい。みすぼらしい。「服装が―・い」
4.飲食物や金銭に対して貪欲である。さもしい。
「口が―・い」「金に―・い」
5.つたない。とるに足りない。
※小我 しょう‐が〔セウ‐〕
1.仏語。凡夫の我。また、個人的な狭い範囲に
閉じこもった自我。「―にとらわれる」大我。
2.インド哲学で、差別界の自我。他と区別した自我。
大我。
※隔執 かく‐しつ【確執▼隔執】
[名]スル互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。
また、そのために生じる不和。かくしゅう。
「兄弟の間の―」
※撤する てっ・する
[動サ変]てっ・す[サ変]取り除く。引き払う。
「陣を―・して退く」
※豺狼 さい‐ろう〔‐ラウ〕【×豺×狼】
1.やまいぬとおおかみ。
2.残酷で欲深い人。むごたらしいことをする人。
※歌人としても知られる鎌倉幕府の三大将軍、
源実朝<さねとも>は、『金塊和歌集<きんかいわかしゅう>』に
「もの言わぬ 四方<よも>の獣<けもの>すらだにも
あはれなるかなや 親の子を思ふ」
との歌を残しています。
言葉で自分の気持ちを伝えることができない獣でも、
子に慈しみの心をけなげに寄せている―その姿に対する
感動を歌に詠<よ>んだのです。
私たちはこの歌に、生き物すべてに共通するいのちの本質を
知ることができます。親は子に愛情を注いで育てますが、
見返りを求めません。本来、子育ては無我の実践ともいえる
ところがあり、親子一体の情愛の世界です。
母親は赤ちゃんがおなかをすかせて泣けば、
どんなに眠くても乳をあげるなど、絶対の愛情を
体現している如<ごと>くに見えてきます。
※厭う いと・う〔いとふ〕
[動ワ五(ハ四)]
1.嫌って避ける。嫌がる。
「団体行動を―・う」「どんな苦労も―・わない」
2.かばう。大事にする。いたわる。
現代では多く健康についていう。
「おからだをお―・いください」
・「元より惣八、門之進を―・ひけるより」
〈浮・懐硯・二〉
3.(多く「世をいとう」の形で)世俗を嫌って離れる。
出家する。
・「世の憂きにつけて―・ふは」〈源・夕霧〉
4.危険や障害などを避ける。しのぐ。
・「霜雪の寒苦を―・ふに心なし」〈笈の小文〉
※浮世 うき‐よ【浮(き)世/憂き世】
1.《もとは「憂き世」の意》仏教的厭世観から、
いとうべき現世。つらいことの多い世の中。
無常のこの世。「―をはかなむ」
・「散ればこそいとど桜はめでたけれ―になにか久しかるべき」
〈伊勢・八二〉
2.死後の世に対して、この世の中。現実生活。人生。
「―の荒波にもまれる」「―の義理」
3.つらいことの多い男女の仲。
・「―をばかばかり水のはまべにてなみだに
なごりありやとぞみし」〈かげろふ・中〉
4.《漢語「浮世(ふせい)」を「うきよ」と解して》
定めのない、はかない世の中。
はかない世なら、浮かれて暮らそうという俗世の気持
ちを含む。→浮世(ふせい)
・「―は風波の一葉よ」〈閑吟集〉
・「夢の―の、露の命の、わざくれ、なり次第よの、
身はなり次第よの」〈隆達節〉
5.《近世初期から、現世を肯定し、享楽的な世界をいう》遊里。
また、遊里で遊ぶこと。
・「にはかに―もやめがたく」〈浮・二十不孝・一〉
6.他の語の上に付いて、当世風・今様の、
または好色・風流などの意を表す。「―絵」「―姿」「―話」
◆本来は、形容詞「憂(う)し」の連体形「憂き」に
名詞「世」の付いた「憂き世」であったが、
漢語「浮世(ふせい)」の影響を受けて、
定めない人世や世の中をいうように変化し、
「浮き世」と書かれるようになった。
◆[類語]社会・世界・世間
※瞋恚 しん‐い【×瞋×恚/×嗔×恚】
《連声(れんじょう)で「しんに」とも》
1.怒ること。いきどおること。「―に燃える」
2.仏語。三毒・十悪の一。自分の心に逆らうものを怒り恨むこと。
[類語]怒り
※不如意 ふ‐にょい
[名・形動]《「意の如くならず」の意》
1.経済的に苦しいこと。また、そのさま。「手元―な生活」
2.思い通りにならないこと。また、そのさま。「―な結果に終わる」
※諦観 てい‐かん〔‐クワン〕
[名]スル
1.本質をはっきりと見きわめること。諦視。「世の推移を―する」
2.あきらめ、悟って超然とすること。「―の境地」
※久遠 く‐おん〔‐ヲン〕
1.仏語。長く久しいこと。遠い過去または未来。
2.ある事柄がいつまでも続くこと。永遠。「―の理想」
[類語]永久
※造物主 ぞうぶつ‐しゅ〔ザウブツ‐〕
宇宙のすべての物をつくり、支配する神。造化の神。
天帝。造物者
※権化 ごん‐げ
1.仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救済するために、
この世に仮の姿となって現れること。
また、その仮の姿。化現(けげん)。権現(ごんげん)。
化身。実化。
2.ある抽象的な特質が、具体的な姿をとって現れたかのように
思える人やもの。「美の―」「悪の―」
※玄 げん
1.赤または黄を含む黒色。
2.老荘思想で説く哲理。空間・時間を超越し、
天地万象の根源となるもの。
3.微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。
・「―を談じ理を折(ひら)く」〈太平記・一〉
4.《玄のつく名が多いところから》江戸時代の遊里で、
医者のこと。また、医者を装ったところから、
僧侶の客をいう。玄様。
・「浅草あたりの―、色里にうかれゆきけるに」
〈浮・常々草〉
※又玄(ゆうげん)
※忌む い・む【忌む/▽斎む】
[動マ五(四)]
1.(忌む)
呪術的な信仰などから、不吉なものとして避ける。
禁忌とする。
「葬式は友引の日を―・む」「宗教上、肉食を―・む」
嫌って、避ける。「革新を―・む」「退屈を―・む」
2.(斎む)身を清め、慎んでけがれを避ける。
・「所を去りて、いみじうかたき物を―・ませ給へ」〈浜松・一〉
※敬 けい
他人をうやまうこと。謹んで物事を行うこと。
「―は礼の本なり」
※恥 はじ〔はぢ〕・ち【恥/▽辱/×羞】
1.恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。
「―を忍んでお願いする」
2.それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。
「家の―」「生き―」
※敬虔 けい‐けん【敬×虔】
[形動][ナリ]うやまいつつしむ気持ちの深いさま。
特に、神仏を深くうやまい仕えるさま。
「―な祈り」「―の念が深い」
※引接 いん‐じょう〔‐ゼフ〕【引▽接/引▽摂】仏語。
1.仏・菩薩(ぼさつ)が衆生をその手に救い取り、
悟りに導くこと。
2.人の臨終のとき、阿弥陀仏が来迎(らいごう)して
極楽浄土に導くこと。
※遇う あ・う〔あふ〕【会う/遭う/▽遇う/×逢う】
[動ワ五(ハ四)]《「合う」と同語源》
1.(会う・逢う)
互いに顔を向かい合わせる。場所を決めて対面する。
「客に―・う」「明日、いつもの場所で―・おう」
たまたま人と出あう。
「駅でばったり知人と―・った」
2.(遭う・遇う)好ましくないことに出あう。
「事故に―・う」「強い反対に―・う」
3.立ち向かう。戦う。「決勝戦で―・うチームは強敵だ」
4.ある時期にめぐりあう。
・「天地(あめつち)の栄ゆる時に―・へらく思へば」〈万・九九六〉
5.夫婦になる。
・「この世の人は男は女に―・ふことをす」〈竹取〉
6.対する。向かう。
・「傍(かたへ)(=カタワラノ人)に―・ひて、
御子はおはすやと問ひしに」〈徒然・一四二〉
※催す もよお・す〔もよほす〕
[動サ五(四)]
1.人を集めて行事などを行う。開催する。「送別の宴を―・す」
2.そういう気持ちにさせる。かきたてる。さそう。
また、物事が起ころうとする兆候を見せる。きざす。
「涙を―・す」「あわれを―・す」
「吐きけを―・す」「眠けを―・す」
3.せきたてる。催促する。
※美妙 び‐みょう〔‐メウ〕
[名・形動]言いようもなく美しくすぐれていること。
また、そのさま。
※狭陋 きょうろう
場所が狭いこと。また、心・見識が狭いこと。
※厚顔 こう‐がん
[名・形動]面の皮のあついこと。恥知らずでずうずうしいこと。
また、そのさま。鉄面皮。「―な人」「―無恥」
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本日感じたこと。恥敬一如。
本日も理想(天地自然の理法を想う)を胸に、よく恥じ、よく敬い、活きたい。
kadodesmo
【原因のないものはない】
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およそこの世の中のありとあらゆる事物の中に、
原因のないものは絶対に、
一つとしてありえないのである。
このことが絶対真理であるということは、
自分の言動や仕事などの結果に、
何か意に満たぬものがあるとき、
それを仔細に検討すると、
必ずは「力」か「勇氣」か、もしくは「信念」が
欠如していたがためだという、原因的事実がある。
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『中村天風』
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「原因のないものはない」これはまさに絶対真理だろう。
「原因」とは「源因」で因子の源である。
「原因」に対して「結果」(事実)がある。
「原因」と「結果」以外に「縁」という力がはたらく。
「縁」は因子になる。「縁」は「関係因子」。
「縁」は「調和」にむけて静動維新する、天地自然の理法にかなっている。
「結果」に対して「原因」は一つかもしれないが、
「因子」はたくさんあり、その「因子」は他の「原因」から来たりする。
「縁」による「因子」にそれは他ならない。
「原因」以上に「結果」に影響を与えることもある。
「原因」を追究すると、その先の「原因」が際限なく繋がっていくことに氣付き、
そこにもまた、「縁」が密接に関係していることにも氣付く。さらに追究すれば、
「原因」が始まりで「結果」がゴールという事実だとしたら、
「原因」の「原因」がまた存在して、当初の「原因」は「結果」になる。
そうなれば究極、やはり、
「原因」も「結果」もただ、「事実」であり、
その「事実」は「縁」によって生まれ、「縁」によって滅される。
そして、その縁生縁滅自体が、人間の都合だけでは決してなく、
天地自然が調和に向けて静動維新、生成化育する理法そのもの。
「原因」の追究は「原因」をわからなくする。
「わたし」を追究すると「わたし」が逃げていくのに似ている。
本質は、
「事実」をあるがまま識り、受け入れること。
「縁」を識ればそれに感謝すること。
この二つが大切な氣がする。
kadodesmo
【プロの自覚】
-
私は以前、寄席で短剣投げを見たことがある。
それは、女の人を壁の前に立たせ、
そのからだスレスレのところに次から次へと、
二十本あまりの短剣を投げるのである。
そのときに私は“これがプロだな”と感じた。
わずかでも手もとが狂えば、人の命にかかわるのである。
それを毎日毎日やり続けて一つの失敗もないというのは、
実に大変なことである。
しかし、それをやり遂げるのがプロである。
考えてみれば、サラリーマンの仕事でも一緒である。
こういう厳しい境地に立って、
はじめて一人前として給料がもらえるということであろう。
今日のサラリーマンに要求されるのは、
アマチュアではない“プロ”の仕事である。
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『松下幸之助』
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うー耳がいたい。。。
kadodesmo
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